япон цэрэгvvдийн булшны улбаа(日本人墓地跡)はウランバートル中心部から北東方向約15キロのところにあります。厳冬の雪の舞う中、白タクシーにて直行。ゲル集落地を抜け、ダンバダルジャー寺院の横を通りゆるやかな丘陵を登っていきます。あたり一面雪で覆われています。外の気温は-38度とのこと。
第二次世界大戦終了間際にソ連軍に強制収容された日本人が、この地で強制労働に従事させられ、厳しい寒さの中、835人の日本人が命を落としました。この厳寒地での強制労働に対し、日本では捕虜に対する人権が守られていなかったと憤慨の声がありますが、モンゴル(ソ連)側では「ハルハ河戦争でモンゴル国に攻撃し敗れた日本からの賠償としての労働」との理解があります。確かに日本はハルハ河戦争(ノモハン事件)の総括を行っていません。ハルハ河戦争の発端は日本の陸軍がモンゴルのゲル30棟を大砲で破壊したことから始まります。日本の侵略戦争だったのですが、現在にいたるまでハルハ河戦争の責任を日本はあいまいにしているためモンゴル国での強制労働に対しても強く非難できない日本の国情があります。
以前モンゴル国の友人から「日本軍がおじいちゃんを殺しに来たの」と言われましたが、それはこの戦争のことでした。
日本人墓地跡に厳冬の季節、初めて訪れたこの日本人に対し、もの珍しそうにモンゴルの方はじっくりと説明してくれました。
この地へは夏など暖かい時期に多くの日本人観光客がくるのですが、厳冬に来る日本人は初めてとのことで、特別に(1時間以上も!)この施設の建立についての経緯、日本人強制労働の話、皇太子訪問時の話などしてもらえました。
厳冬のこの時期にきてよかった。
当時、強制労働をさせられた日本人の辛さ、理不尽さが少しでも体感できます。
■〔写真〕この建物の中には第二次世界大戦にてモンゴルで永眠された1500名の日本人の名前と仏像が安置されています。寄付を募り建設されたようです。一番寄付金を拠出したのは朝昇龍(ドルジ)だったとのこと。彼の拠出金のおかげで遺族の意向どおりのデザインで建物が建てられたとのことです。
第二次世界大戦終了間際にソ連軍に強制収容された日本人が、この地で強制労働に従事させられ、厳しい寒さの中、835人の日本人が命を落としました。この厳寒地での強制労働に対し、日本では捕虜に対する人権が守られていなかったと憤慨の声がありますが、モンゴル(ソ連)側では「ハルハ河戦争でモンゴル国に攻撃し敗れた日本からの賠償としての労働」との理解があります。確かに日本はハルハ河戦争(ノモハン事件)の総括を行っていません。ハルハ河戦争の発端は日本の陸軍がモンゴルのゲル30棟を大砲で破壊したことから始まります。日本の侵略戦争だったのですが、現在にいたるまでハルハ河戦争の責任を日本はあいまいにしているためモンゴル国での強制労働に対しても強く非難できない日本の国情があります。
以前モンゴル国の友人から「日本軍がおじいちゃんを殺しに来たの」と言われましたが、それはこの戦争のことでした。
日本人墓地跡に厳冬の季節、初めて訪れたこの日本人に対し、もの珍しそうにモンゴルの方はじっくりと説明してくれました。
この地へは夏など暖かい時期に多くの日本人観光客がくるのですが、厳冬に来る日本人は初めてとのことで、特別に(1時間以上も!)この施設の建立についての経緯、日本人強制労働の話、皇太子訪問時の話などしてもらえました。
厳冬のこの時期にきてよかった。
当時、強制労働をさせられた日本人の辛さ、理不尽さが少しでも体感できます。
■〔写真〕この建物の中には第二次世界大戦にてモンゴルで永眠された1500名の日本人の名前と仏像が安置されています。寄付を募り建設されたようです。一番寄付金を拠出したのは朝昇龍(ドルジ)だったとのこと。彼の拠出金のおかげで遺族の意向どおりのデザインで建物が建てられたとのことです。
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