モンゴルの二十世紀―社会主義を生きた人びとの証言
2007年8月12日 読書
『単行本 小長谷 有紀 中央公論新社 2004/08 ¥1,785』
モンゴルから帰ってきたばかりの通訳と浅草橋のモンゴルタウンという名のмонголын гуанз(モンゴル料理店)で食事をする。
「モンゴルは社会主義の頃は豊かだったのよ。けど今はマンホール・チルドレンと呼ばれる子がUB(ウランバートル)に溢れている」。
マンホール・チルドレンとは厳冬下でも比較的暖かなマンホールを住処にする親の無い子どもたちの俗称である。この話が彼女の口から出るとは意外だった。モンゴルの悪しき部分を表に出したがらない程、彼女は自分の国に誇りを持っていたからだ。よほど目に余る光景だったのだろう。
モンゴルでは1992年の社会主義から民主化へ移行する際、世界に誇れる教育システムが機能不全を起し、数千ものマンホール・チルドレンを誕生させてしまった。
世界で2番目の社会主義国としてモンゴルは誕生し、社会主義建設の手段をソ連から直接学んできたのだが、社会主義の終わり方はソ連や東欧に学ばなかったと批判される。
しかし、社会主義の終わりとして一人の逮捕者を出さなかったモンゴル国は東欧諸国とは異なる唯一無二の存在である。だいたい社会主義の終わり方なんてマニュアルは無いはずだ。
モンゴルは自由主義経済社会への移行の試練の最中にある。
そんな中、大学数は増加し、外国語を学ぶ人間で溢れているという。
米百俵の精神。モンゴルの地にも芽生えていることを祈る。
周知のとおり、二十世紀までモンゴル社会の教育はラマ教寺院がその役割を担ってきた。社会主義はラマ教とのイデオロギーの衝突をおこし、信仰の自由を唱えながらもモンゴル社会の停滞の元凶としてラマ教を徹底的に弾圧した。
モンゴル国では1930年代の粛清を機に、古い時代を全面的に否定して社会主義教育をシステム化させ、それを通して近代的な教育をおこなうこととなった。そのうえ、1950年代から実施したキリル文字普及に伴って、民族の歴史文献すらよめない真新しい社会主義国民を育ててしまった。しかし、その反面、社会主義教育によって移動学校などをはじめ、広大な遊牧地域における基層教育システムを構築し、人口の少ない国民のなかから優秀な人々をきちんと育てあげることに成功した。こうしてモンゴルは国民の九割以上が教育を受けるというアジアでも指折りの、高水準の国民教育に達したことは誰もが否定できない事実である。
モンゴルから帰ってきたばかりの通訳と浅草橋のモンゴルタウンという名のмонголын гуанз(モンゴル料理店)で食事をする。
「モンゴルは社会主義の頃は豊かだったのよ。けど今はマンホール・チルドレンと呼ばれる子がUB(ウランバートル)に溢れている」。
マンホール・チルドレンとは厳冬下でも比較的暖かなマンホールを住処にする親の無い子どもたちの俗称である。この話が彼女の口から出るとは意外だった。モンゴルの悪しき部分を表に出したがらない程、彼女は自分の国に誇りを持っていたからだ。よほど目に余る光景だったのだろう。
モンゴルでは1992年の社会主義から民主化へ移行する際、世界に誇れる教育システムが機能不全を起し、数千ものマンホール・チルドレンを誕生させてしまった。
世界で2番目の社会主義国としてモンゴルは誕生し、社会主義建設の手段をソ連から直接学んできたのだが、社会主義の終わり方はソ連や東欧に学ばなかったと批判される。
しかし、社会主義の終わりとして一人の逮捕者を出さなかったモンゴル国は東欧諸国とは異なる唯一無二の存在である。だいたい社会主義の終わり方なんてマニュアルは無いはずだ。
モンゴルは自由主義経済社会への移行の試練の最中にある。
そんな中、大学数は増加し、外国語を学ぶ人間で溢れているという。
米百俵の精神。モンゴルの地にも芽生えていることを祈る。
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